自らの背を抜く大木をよじ登る
踏み外せば怪我は必至の塀の上を歩く
意味もなく理由も自覚せずとも繰り返してリスクを負う
一見して明らかに危険を伴うことを、幼少の時分に果敢に成してきたことを、我々はどんどんと、避けるようになっていきます。
怪我をするといけないからと、駆けることをやめ
他者へ不快感を与えてはいけないからと、本音に蓋をし口を噤み
世間体を気にして、様子を見ることが増えて、延びて
挑戦をしなくなって。
取り返しのつかなることを避けて、無難に、無難に。
それは、守るものが増えたということでもあり
自身以上に大きなものが、あるいは小さくとも大切なものができたということでもあり
それはそれで一つの覚悟の形であることを承知の上で。
それでも、その上で、何かを賭ける、何かにカケル、覚悟が失われていっているように思います。
誰も、痛みを負うことを好き好むことはないでしょうし
失敗したいわけがないでしょうし
しかしながら、それでも、賭けて、駆けて、懸けて、欠けて、翔けることを夢見て。
そこまでするから、報われない時に涙を流すのだと思います。
自身の思う全力を、イノチを賭して、駆け欠けたからこそ泪をながすのだとおもうのです。
その全力が限界まで追い込んで、なおそれを超えても一歩を踏み出して続けて
そうして膝が折れる時に、涕が流れるのだと思うのです。
どうすればいいのだと、膝から崩れ落ちて、苦悩して、十余年を否定されて、どうすれば良かったのかと過去に思いを馳せて
そうしてリスクを恐れるようになって。
でもどうしても譲れないものがあります。
イノチすら懸けてきたと自ら宣うならば、死んでこそ本望だろう
目の前にするべきだと思うことがあるならば、明日死ぬ身である、と賭け駆け欠けたい。
望みの一才を裏切られてなお、涕と一緒に崩れ落ちる覚悟を持ち続けていたいのです。
それは愚かだと、人は言います。
それは幼稚であると、促します。
それでも、私は、この蒙昧さを持ち続けることに不快感を感じない。
音楽を、芸術を志すことは、人生の八割を賭した証で、
そうした人間性を含むなのではないかと愚考します。
どうかこの覚悟が、願わくば。
潰えるその時も、笑って涕けるものとなりますように。
3歩進んで2歩下がる。
目に見えるような、瞠目するような、刮目してみるべき男子のような成長とはとても言えないようなものであったとしても、しかしながら一歩一歩確実に踏み締めていくもの。
いやその歩幅こそが、歩の数こそが道をつくって
その足跡がやがて轍すらも超えて大きな痕を残すことを、我々は夢見るのではないかと思います。
やがて死に往くときに振り返って、あゝよいものだったといえるものこそ、そこに至る過程こそ、研鑽という名にふさわしいのではないかと。
しかしながら、なんとその"道"の険しいことか。
なんとその"道"の永いことか。
気の遠くなる年月をかけてそれでもまだ目標には足りず
もはや初めの頃にあった想いも摩耗してそれでも飽き足らず
自分が当時何者であったのか、何者であろうとしたのか
3歩進んで2歩下がるなどとんでもない
100歩進んで99歩下がる。
それほどに、ある種の、狂気じみたモノを、自らに課しているようにも思えるのです。
成長というものは確かに在るけれども、自らが自ずからそれに気づくことは稀で、つまりは主観ではそれは無いものと同義で
だから、独りではヒトは生きてはいけないのだなぁとも思う。
しかし"道"を作るのは自らの両足の足跡のみであって欲しい。
矛盾しているし傲慢であるし幼稚であると、我ながら思います。
それでも、凡才である我が身にも、摩耗した初志を、せめて貫徹させようという意地があり
それこそ音楽を始める際に自らに誓った初志だったなぁと思い出します。
あなたの足跡を追う足跡をこれからも残し続けたくおもいます。
主よ。
"ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。"
コリント人への手紙 第一 9章26~27節
今朝方堺市からの、「人間ドック助成しますんで受けませんか」的なハガキをいただきまして物思いに耽る私をお許しくださいなんて歳月の早いこと早いこと
我が家には"Max"なる不定形の、あらゆる形に姿を変える、巨大なスペースインベーダー、Yogiboがいます。宇宙ではなく空間を狭めてくる的な意味で。
これ、1〜2年ほど前にこれめちゃくちゃいいやん!と意気揚々と購入に至った経緯としまして、ソファーにも、ベッドにもなる、来客時には思わず笑みがこぼれること請け合いだと、さも天啓でも受けたかのように飛びつきました。メルカリで。
今やクソ邪魔です。
ただ、自分の昔の判断が間違っていたと認めるには、私はまだまだ若輩ということでしょうか、何かに有効活用できると信じてやまない34歳。今の私のこの気持ちを、購入する直前の私に伝えてやりたい。もっと考えろと。忖度しろと。今の私を。
やれやれ。
忖度で思い出しましたが、我々はいろんなモノに忖度を働かせますよね。
主語が大きくなりますが、そんなに的外れでもないと思います。
同業、上司、部下、友人、恋人、親、子、知人、親戚、嫁、姑、etc
自分のした行動の結果を推し量り他者の感情を推し量り。
人の気持ちなんて、その実、到底辿り着けはしないその真実とやらに、期待と希望とあるときは確信を持って、ある意味勘違いをしながら、"忖度"して。
それこそ、一つの愛の形なのだと思いますが
でもやっぱり、素直に自身の気持ちを伝えることができる社会の方が、良い空気が吸えると思うのですけど。
自分の気持ちに正直になれ方がどんなに難しく、そして素晴らしいか、と考えずにはいられません。
もちろん、モラルを欠くようなことや法を犯すなどは論外として
自分で自分の想いに蓋をせずにはいられない世というのは、それはもはや一つの地獄のようだなと。
自分に正直に生きることが、イコール、そのまま思いやる忖度になれればなと思います。
失礼、、雑感、雑文、失礼します。
PS.
話変わりますが、いつまでマスクをしないといけないのでしょうか。ええ、話は変わっております。かんぜんに。他意はありません。マスクしてます。はい。
PPS.
何気に私のブログを楽しみにしていたんだと、友人知人から、数年越しによく私の耳にすることとなりまして筆を取った次第です。ね、年月が…
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財布にお金が無い、しかしいまのどが渇いて仕方がない
自身が望んで求めてやまない、渇望するものを与えてくれる
しかしながらお金がない自分にはそれを得ることができない
うなだれながら前を通り過ぎる。
当然のことながら、我々は対価を要求され、資格なしに与えられるものを信じることができないものです。
しかしながら、そこに備えてくださるのが神様で
それに気づかずにバイアスのまま通り過ぎるのが我々人だなぁと。
目に見えないものを確信する信仰を。
あなたが与えてくださった愛を。
期待して確信して固く握るものでありたい。
本年はお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
主に在りて。
2020,12,29